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2018年8月20日 (月)

ブログ移転のお知らせ

本ブログ「転轍される世界」は、2018年8月末をもって、独自ドメイン https://soiree.belle-neige.net に移転します。

ココログ内の旧ブログは、2018年9月末をもって閉鎖の予定です。移転先でも、ひきつづきお付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。

2017年12月17日 (日)

夜会工場VOL.2――12月の大阪公演を観て

この記事は、中島みゆきの夜会工場VOL.2(2018年2月18日(日)まで公演中) の内容に関する「ネタバレ」を多く含みます。これから公演をご覧になる方は、ご注意ください。

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夜会工場VOL.2、12月11日と13日の大阪フェスティバルホールでの公演を観た。

叶うことなら初日、11月26日の府中公演に臨みたかったのだが、チケットは予想を超える大激戦であえなく連戦連敗。また12月上旬の福岡公演への遠征も諸般の事情でままならず、地元関西での11日の公演が私にとっての初日となった。

昨年1月の『一会』以来のフェスティバルホール――エントランスに足を踏み入れた瞬間に、かつての旧ホールの時代から変わることのない、ライブへの予感を秘めた華やかな空気感が、私の身をゆったりと包んでいく。

開場前から開演前、何人かのみゆきファン仲間たちと交わす会話は、ファン同士の絆を再確認する貴重なひと時だ。

開演15分前、客席に就く。舞台上は灰色の石造りの壁に囲まれ、両袖にはミュージシャンが陣取る黒い鉄製の高い台、そして中央の床上では、薄明の中、工員――作業服姿のスタッフたち――が道具類を運びながら行き来しはじめる。日常から非日常への、緩やかな遷移――このプロローグは、4年前の夜会工場VOL.1とほぼ同様だ。

やがて開演ベルが鳴ると間髪を入れず、両袖のミュージシャンたちが、あの懐かしい「二雙の舟」のイントロを奏ではじめる。とりわけ、弦がしなやかに歌う主旋律が美しい。

――こうして私は、「夜会を作る工場」の現場を4年ぶりに訪れることになった。

以下、公式の上演台本と、いつもながらビジュアルな記憶の再現の鮮やかさに驚嘆させられる、ぴしわさんのブログ「夜会工場 vol.2 覚え描き」とを参照しながら、とりわけ強く印象に残ったことを中心にレビューしていきたい。

懐かしさと新鮮さとの相乗

夜会工場VOL.2の第一印象をあえて一言にすれば、懐かしさと新鮮さとの相乗、ということに尽きるだろうか。

これまで四半世紀を越える時間の中で、私の中に堆積してきた数々の夜会の舞台の記憶を、その熱量とともにありありと蘇らせられながら、それと同時に、それが単なる懐古ではなく、つねに清新な何かの発見をももたらしてくれている、という実感に、ずっと興奮させられ通しだった。

そうした印象はやはり、これまで同じ舞台に立ったことのないメンバーをも含む男女6人の共演者が、キャスト兼ヴォーカリストとして活躍したことによるものが大きいだろう。

男性キャストが宮下文一と石田匠の二人になったこと、またとりわけ石田匠は、夜会では中島みゆき自身が演じる女性役だった天文学者(『金環蝕』より「最悪」)やメイ(『シャングリラ』より「南三条」)をも演じ、彼のハイトーンのヴォーカルの魅力とも相まって、ジェンダー的な表現の幅が大きく広がり、夜会に潜在していた――これまで想像もしなかった――世界の新たな可能性を発見させられたことが、とても印象的だった。

宝塚出身の植野葉子、香坂千晶の二人は、今世紀に入ってからの――VOL.12以降の――夜会や夜会工場VOL.1では、もっぱら舞台上の演技に専念してきたが、今回は「愛から遠く離れて」「陽紡ぎ歌」「フォーチュン・クッキー」などで久々に美しいハーモニーを披露し、彼女たちの歌手としての実力をも大いに再認識させられた。

夜会工場には初登場となる中村 中は、夜会1990での若き日の中島みゆきを髣髴とさせるオフィスガール姿での「Maybe」の清新な健気さ、『花の色は…』秋の場の祭半纏姿で、中島みゆきよりもずっと高いキーで歌う「船を出すのなら九月」のフェミニンな魅力等々、『橋の下のアルカディア』でのあの鮮烈な歌と演技が、更なる多様な演目にも展開する潜在力を秘めたものであったことを実感させた。

そして――これはVOL.1の時も同様だったが――夜会では舞台下でヴォーカルを担当する杉本和世と宮下文一とが、舞台上のキャストとして登場することが、まさに「夜会工場」というコンセプトを正確に可視化していることに改めて注目したい。

『ウィンター・ガーデン』では能楽師が演じた〈槲〉役での詩「傷」の朗読や、『2/2』では男優が演じた矢沢圭役で力強く歌う「旅人よ我に帰れ」は、つねに「声の演技力」で夜会に貢献してきた宮下文一の、まさに面目躍如というべき見せ場であり聴かせどころだった。

そして、実質的な1曲目の「泣きたい夜に」、実質的な本編ラスト曲の「あなたの言葉がわからない」という両端の2曲を、いずれも杉本和世とのデュエットで歌ったことは、この永年のパートナーへの中島みゆき自身のオマージュであるとともに、夜会そのものの記憶へのオマージュでもあるように思えた。

彼女たち、彼ら6人の活躍の反面として、中島みゆき自身の歌が相対的に少なくなったことに関しては様々な感想があるだろう。

だが、それぞれに多彩で存在感十二分な共演者たちの歌と演技には、中島みゆき自身の意思が強く反映していることがはっきりと感じられ、彼女たち・彼らを率いる「座長」としての彼女のパワーに圧倒させられる思いだった。それも、共演者たちが自らの個性を抑制するのではなく、むしろそれぞれの個性を存分に発揮することが、同時に中島みゆきの意思の正確な反映となっていることことが重要だ。

他者という「故郷」との出会い

夜会工場VOL.2全体のメッセージ的内容についても、とりあえずの印象を記しておこう。

VOL.1では、当時のブログ記事 に書いたとおり、未来→過去(→転生)という時間的な流れが全編を貫いているように感じたが、あえてそれとの対比で言えば――

VOL.2を貫いているのは、故郷(くに)の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会い、という空間的な流れ、とでもいうべきものなのではないか。

そのように直感した大きな要因は、セットリストの中でもとりわけ重要なポイントとなる――いずれも中島みゆき自身が歌う――次のような曲の流れにある。

第1幕中盤、3人のアメノウズメ――中島みゆき、植野葉子、香坂千晶――が舞い歌う「EAST ASIA」は、VOL.1での「泣かないでアマテラス」とも対になって『金環蝕』大詰めの神話的世界を鮮やかに再現し、「EAST ASIA」という自らの「くに」への愛を高らかに謳う。

しかし第1幕ラスト、故郷への遡上の道を閉ざされた〈鮭〉たちが声を合わせる「我が祖国は風の彼方」(『24時着0時発』) では、「時の彼方」「波の彼方」「空の彼方」にある祖国への遥かな思いが、「いつの日にか帰り着かん」と哀切な憧れをこめて歌われる ――この7人全員による大合唱は全身が震えるほどに感動的であり、中島みゆきが6人の共演者を起用したことの必然性が最も強く感じられる場面でもあった。

そして第2幕終盤で、それまでの演目時系列順の構成から離れて演奏される3曲――「思い出させてあげる」「旅人よ我に帰れ (幸せになりなさい)」「あなたの言葉がわからない」――が、新たな故郷との出会いへの道をかたちづくる。

『シャングリラ』でメイが歌う「思い出させてあげる」は、女主人・美齢(メイリン)への復讐の思いをこめた歌だった。その演出自体は、夜会工場VOL.2でも基本的には変わっていない。しかし、そのネガティブな意味は、驚くべきことに、それに続く場面の流れの中で、「忘れていた」記憶を「思い出す」ことによる救済を意味するものへと反転していく。

宮下文一が歌う上述の「旅人よ我に帰れ」で、「旅人」の「帰り道」を照らす「真実の灯」に導かれるかのように、舞台背面の大扉が開き、美しい緑の竹林の中からアオザイ姿の上田茉莉 (中島みゆき) が歩み出る――彼女が歌う「幸せになりなさい」によって、双子の妹・莉花は偽りの自責の記憶から解き放たれ、『2/2』は約分されて『1』として再生し、遂に自らの人生を歩み始めることが示唆される。

これまでの夜会のいくつかの演目でもそうだったように、舞台背面の大扉――最近では『橋の下のアルカディア』のあの零戦の格納庫が記憶に新しい――は異界との通路であり、救済への道を開く扉となるのだ。

第2幕の実質的な終曲「あなたの言葉がわからない」もまた、アイデンティティの再生への祈りの歌である。自らが操った言葉という武器の罪に苦しむアナウンサー綾瀬まりあ (中島みゆき) と、タイ人娼婦 "26000円" (杉本和世) との偶然の出会い――逆説的にも、言葉の通じない彼女との手探りのコミュニケーション、言葉という国境を越えた他者との出会いこそが、まりあの心を再生へと導くことが予感される。

――この場面の背景全面、街の灯と満天の星空とが溶け合いながら輝きを増していくさまは息を呑むように美しく、まるでそここそが、彼女たちの新たな故郷であるかのようだ。

そして付け加えるまでもなく、全編を締めくくる夜会工場のテーマ曲「産声」――産まれた国の違いを超えて「習いもせず歌える同じ歌」を聴くことへの希い――こそは、そのような他者という新たな「故郷」との出会いへの希いでもある。

――上述のような、故郷の喪失→新たな故郷 (としての他者) との出会いというストーリーの原型は、「旅を続ける人々は/いつか故郷に出会う日を……」という「時代」のよく知られたフレーズに見出すことができるかもしれないし、また中島みゆきが最初期のコンサートのMCで語っていた、「故郷 (ふるさと) は、場所なのかもしれないけれど、故郷は、人だったような気もして……」という意味の言葉にも遡ることができるのではないかと、懐かしく思い出したりもする。

「夜会工場」というライブ形式について

VOL.2で導入された、舞台上部の電光掲示板による演目の表示や、案内役としての中島みゆき自身による各演目のストーリーの解説は、必ずしも夜会に詳しくないオーディエンスにも、夜会の魅力を伝えるうえで大いに役立っていたように思う。このあたりは、VOL.1と較べての進歩というべきだろうか。

ただ、その一方で、ラストの「産声」を歌う前に、ファンサービス(?)として「慕情」の冒頭だけ――それも意味深にも「時に情けはない」まで――を歌い、「おわり。ストレスの溜まるサービスタイムでした」とオーディエンスを笑わせる演出は、単なる余興というよりも、むしろ、夜会工場という新たなライブ形式への中島みゆきの強烈な自負を踏まえた、オーディエンスに対する一種の韜晦であるように思えた。

今回のMCでも中島みゆき自身が語っているように、夜会は、コンサートとは異なる新たな文脈、新たな物語を設定することで、自らの作品に新たな意味、新たな生命を吹き込む試みだった――「言葉の実験劇場」という初期の夜会の別称は、まさにそのことを意味していた。

だとすれば夜会工場は、夜会に対して同じことを再帰的に試みる形式、いわば「言葉の実験劇場の実験劇場」とでもいうべきものなのではないか。あるいは――上述のVOL.1のときのブログ記事でも書いたように――夜会という物語についての物語、「メタ物語」とそれを呼んでもよい。

関西地域のイベンター「夢番地」の最近の会報に掲載されたインタビューの中で彼女は、「「夜会工場」は工場を作って、その中に夜会の舞台を作るわけですから夜会よりも大きいホールにしないと」と語っている。このようなホールの物理的規模への配慮もまた、上述のメタレベルの視点の存在を裏づけるものだろう。

初期の夜会がファンに――それも、永年の熱心なファンにこそ――多くの戸惑いを生んだように、夜会工場もまた、そうした戸惑いの源泉になっている可能性はある。

しかし、上述のような新たな発想と挑戦とに満ちた実験の数々は、夜会という世界が、これまでに実現してきた以上に遥かに豊かなパラレルワールドとしての可能性を孕んでいることに、はっきりと気付かせてくれる。そのような新たな数々の世界に出会うことへの希望が、夜会工場という新たな形式によって初めて開かれたのだ。

上述のVOL.1のときのブログ記事で、私は

異界への旅、転生、そして救済の物語としての夜会――
その旅はまだ未完であり、さらなる転生の物語を、これからもまた夜会は紡ぎ織りなしてゆくだろうという期待と予感を、「夜会工場」という「メタ物語」は、私に与えてくれるような気がする。

と書いた。夜会工場VOL.2は、それらの期待と予感を、より確実に力強く私の中に膨らませてくれる。

【セットリスト】

第1幕

  • 二雙の舟(Inst.)
  • 泣きたい夜に
  • Maybe
  • LA-LA-LA
  • 熱病
  • 最悪
  • EAST ASIA
  • 船を出すのなら九月
  • 南三条
  • 子守歌(Inst.)
  • 羊の言葉
  • 愛から遠く離れて
  • 谷地眼(詩)
  • 傷(詩)
  • 朱色の花を抱きしめて
  • 陽紡ぎ唄
  • 帰れない者たちへ
  • フォーチュン・クッキー
  • 我が祖国は風の彼方

第2幕

  • 百九番目の除夜の鐘
  • 海に絵を描く
  • 彼と私と、もう1人
  • ばりほれとんぜ
  • 1人で生まれて来たのだから
  • すあまの約束
  • 袋のネズミ
  • 毎時200ミリ
  • 思い出させてあげる
  • 旅人よ我に帰れ(幸せになりなさい)
  • あなたの言葉がわからない
  • 産声

2016年12月10日 (土)

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』中間報告――初演VOL.18との差異を中心に

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この記事は、中島みゆきの夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』(2016年12月17日(土)まで赤坂ACTシアターで公演中) の内容に関する「ネタバレ」を多く含みます。これから公演をご覧になる方は、ご注意ください。

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』の初日11月17日(木)、および11月22日(火)の2公演を観た。

初演を前提としたうえで再演を観ることの醍醐味は、初演とのさまざまな差異――それが大きなものであれ、微細なものであれ――を通じて、その演目に中島みゆきがこめたであろうメッセージの多層性、あるいは世界観の深みや広がりを、より大きな振幅の中で体感できるということに尽きるだろう。

この演目の初演VOL.18については、すでに (劇場版の感想も含めて) このブログに5本の記事を書いてきた。しかし、かなりの字数を費やしてもまだ、この作品の世界の隅々までを知りえたという実感はない。むしろ、思い出し考えるほどに、言葉にしえない謎が自分の中で深まってゆくような感覚があった、というのが正直なところだ。

が、今回の再演は、それらの謎のすべてとは言わないまでも、少なくともいくつかをより明瞭な光の中に照らしだし、そしてそのことによって、この『橋の下のアルカディア』という演目がはらむ魅力と衝撃力を、初演とはまた異なる新たな視角から発見させてくれたように感じる。

この記事では、千秋楽を1週間後に控えた現時点での「中間報告」として、初演との差異――それもとくに重要と思われる部分――を思いつくままにピックアップしながら、現時点での印象や考えをまとめておきたい。

なお、今回もまたビジュアル面では、ぴしわさんの『覚え描き』ブログに掲載されている見事なイラスト群が、私の視覚的記憶の不完全さを補ううえで大いに助けになった。ぜひあわせてご参照いただきたい。

「模型の高橋」および九曜とその父・祖父について

第1幕が始まってすぐに注意を惹かれるのは、舞台下手にある模型店――高橋九曜 (石田 匠) の実家――の外見である。初演では水色のシャッターに左横書きで「模型のタカハシ」と店名が記されていたが、今回は右横書き・漢字で「模型の高橋」と大書された看板が店の上部に掲げられている。さらに看板の「模型の」と「高橋」との間に大きな零戦のレリーフ(?)があり、プロペラ部分は看板からさらに上部に大きくはみだしている。

店名が左横書きから右横書きに変更されたことは何を意味するのだろうか。この地下壕が防空壕として建設された戦前ないし戦中からすでに、この模型店はここに店を開いており、店主の息子だった一曜は、その頃にパイロットを目指して予科練に志願した――といった時系列が想定されるのだろうか。

だが、こうした時代考証めいたディティールにこだわることには、おそらくあまり意味はないだろう。それよりも本質的なのは、この模型店が、3世代を通じて戦争の記憶が継承されてきた場所であり、そのことが看板の右横書きによってより強調されている、ということなのだと思う。

ついで、第2幕の「水晶球」の場面では、九曜が歌いながら、模型店内の父と祖父の遺影の傍らから、かなり大きな零戦の模型を取り出す。この模型は――ラストシーンで登場する零戦と同じく――翼端灯 (右が緑、左が赤) が輝いている。

看板に掲げられたレリーフとこの模型はともに、明らかにラストシーンへの伏線であり、零戦が祖父・一曜から父・忠を経て九曜の世代に受け継がれた戦争の記憶――そして「人を幸せにする翼」という叶えられなかった願い――を象徴していることを示唆しているのだろう。

少し場面は戻るが、第1幕の「一族」は、九曜が二人の遺影を胸に抱きながら歌う。この場面では彼はガードマンの制服のままであり、次の第2場で「公羊」としての前生が明かされることへの伏線になっているのは初演の時と同様だ。が、それと同時にこの歌には、かつて「脱走兵」として謗られた――彼と同じ「曜」の字を名に持つ――祖父と、彼を匿った父の記憶を、「知られたくない」と願いつつも大切に守ってゆこうとする九曜の屈折した思いもまた表現されているのではないか――再演で付加されたこの演出は、「一族」のそのような両義性を示唆しているようにも思える。

天音の衣装、振り付け等について

ビジュアル面での変化としておそらく最も強い印象を与えるのが、豊洲天音 (中村 中) の姿と立ち居振る舞いだろう。

第1幕の「恋なんていつでもできる」では、彼女は二の腕や胸元も露な銀色のタイトなドレスで、九曜を誘惑する妖艶なダンスを披露する (ここがラッキィ池田氏による振り付けだろう)。

後の第2幕で、チンピラに襲われて怪我をした九曜を天音が介抱する場面についても、中島みゆきから「もっと濃厚にガードマンに迫るように」という指示があったとのことだ (パンフレットにある前田祥丈氏の「稽古ルポ・解説」より) 。

天音が九曜に寄せる想いは、おそらく九曜の亡き父・忠 (「呑んだくれのラヴレター」の送り主) への想いを引き継いだものであり、また前生のすあまが飼い主・公羊を慕う気持ちの再生でもあるように見えるが、それと同時に――あるいはそれ以上に――今生において天音が「生きること」へのポジティブなエネルギーの発露という印象を強く受ける。何と言ってもセクシュアルな事柄への情熱は、人あるいは生き物が生きてゆくエネルギーの重要な源泉なのだから…

また、第1幕の「大きな忘れ物」で、銀行強盗が抱えていた現金を人見と天音が横領(?)しようとするドタバタの直後に、九曜が現金の入っていたカバンの蓋を閉める音が大きく反響し、天音が激しくおびえる場面も――コミカル/シリアスのコントラストの強さという点を含めて――非常に印象的だ。

この大きな音の反響は、第2場ですあまが猫籠に入れられる場面で猫籠の蓋が閉じる音として再現され、天音のおびえが前生の記憶に由来することが明らかになる。

3人の関係性について

第1幕での「人見ちゃん、仕事中は名前で呼ばないでください。高橋です」という九曜の台詞に対応して、第2幕では「まだ仕事中ですので、橋元さんと呼んでくださいね」と橋元人見 (中島みゆき) が答える台詞が追加されている。初演では「人見ちゃん」という呼びかけはなく、これらの台詞は――前生で夫婦であった――九曜と人見のあいだもまた気の置けない関係であることを示唆している。

「仕事中」という言葉は、天明の場面で公羊が歌う「男の仕事」の伏線になっているのだろうか――いずれによせ、前生での名前「公羊」「人身」と同音の名前で呼ばれることをお互いが無意識のうちに忌避していることが、初演よりもさらに強調・明示されているのは明らかだ。

また、天明の場面では、最後にすあまを猫籠に入れる人物が、人身から公羊に変更されている。これは「捨て子選び」「男の仕事」の歌詞との整合性という意味もありそうだし、今生のシャッター街でと同様に、前生の天明の時代でもまた、3人相互の関係性がより緊密に描かれているという印象を与える。

水晶球と猫の眼の光

第1幕の「川の音が聞こえる」では、人見が手に持った水晶球と水晶宮の店内に置かれた水晶球とが、同期するかのように青白く光る。また第2幕の「一族」でも、人見が後ろ手に持った水晶球が青白く光り、九曜がそれに脅えながらも惹きつけられるかのように彼女の後に従う場面が、きわめて印象的だ。

これらの青白い光は、あたかも3人の前生の記憶が再生され始める前兆であるかのようで、前作『今晩屋』での消火栓の赤ランプの点滅とも似た役割を果たしているような気がした。

また天明の場面、猫籠に入れられる直前で、すあまの両眼も同様に青白く光る。この演出は、第1幕の幕切れで彼女が歌う「人間になりたい」の「夜を映す青い目も…」という歌詞に対応しているが、さらに上述の水晶球の青白い光と呼応し、来生すなわち「次生まれるとき」へと悲しみの記憶を伝えようとする意志の表現でもあるかのようだった。

風鈴の音

第2幕では冒頭に風鈴が3回鳴り、「夏」という季節を印象づける。日本の「夏」は戦争の記憶と鎮魂の季節であり、風鈴の音は (仏壇のおりんの音にも似て) まず、そのことを暗示しているのだろう。

さらに第2幕の中盤では、「模型の高橋」の軒下に人見が5個の風船を吊るす。これらの風鈴の音は、この世にいない者たち、すなわち、それまでは遺影としてのみ登場していた忠と一曜――あるいは、もし5個という数字に意味があるとすれば、人身・公羊・すあまを加えた5つの魂――の思いを、この世に呼び戻すための「信号」の役割を果たしているかのように思えた (その点では、『今晩屋』での鐘の音の役割とも通じるものがあるのかもしれない)。

メロディーとアレンジの変更

第1幕の「恋なんていつもできる」は、初演でのアップテンポから、上述の天音の妖艶なダンスに合わせて、サックスのイントロで始まるミディアムテンポのアレンジに変更されている。

第2幕中盤の転換点となる「二隻の舟」のイントロでは、チェロが奏でる「水晶球」のメロディが挿入され、水晶球が時の流れを超えて過去を映し出すことを暗示しているようだった。

続く「水晶球」をはさんだ「一族」では、上述の水晶球の色の変化とも呼応しながら、前生の記憶の再生が始まることを予示するかのように、第1幕とは異なる低い音程のメロディ――おそらく主旋律に対する対旋律――を人見が歌う。

第2幕終盤近く、やはり人見が歌う「いらない町」は、第1幕とは異なる短調のメロディに変更され、地下街を襲う絶体絶命の危機が強調される (同じ曲が長調・短調の両方で歌われるのは『今晩屋』の「旅仕度なされませ」でも同様で、やはり悲劇的な運命への転換を印象づけていたことが思い出される)。

「呑んだくれのラヴレター」「国捨て」の歌詞追加、およびラストシーンについて

台詞に関しては、上記以外にも、かなり多くの箇所で追加や改変がおこなわれているが、歌詞の追加部分は、この終盤の2曲で繰り返して歌われる――パンフレットにも記載されている――4行のみである。この4行は、「緑の手紙」というこの物語の鍵となる謎めいたモチーフの意味を明確化するという、きわめて重要な役割を果たしている。

まず冒頭の

その手紙に鍵は無く その手紙に主は無く

というフレーズは難解だが、「鍵は無く」とは、その手紙はすべての受取人に対して開かれており、その意味は誰にでも自由に読み取れるはずだということを、また「主は無く」とは、その手紙の送り主は個人としての一曜なのではなく、「幸せにする翼」という願いを戦争によって奪われた――パイロットや技術者たちをはじめとする――すべての人びとなのだということを、それぞれ意味しているようにも思える。

それに続く

あるはずの銃も無く あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

という2行は、ラストシーンに登場する零戦の両主翼の20mm機銃のあるはずの場所に、眩い前照灯が点ることへの明らかな伏線だろう。この大道具の効果自体は初演と同様だが、「人を殺す道具ではなく……」という一曜の願いをさらに強調するための追加歌詞となっている。

そして、

暗い水の底から 空へ

という追加部分の最後のフレーズは、かつてこの地で人柱となった人身たちの魂が救済され、天空へ羽ばたくというラストシーンの意味を、より鮮明に表現する。

水底あるいは地上から天空へという垂直軸の上昇が、過去(前生)から未来(来生)への飛翔、すなわち過去の救済と重ね合わされるというビジョンは、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』という夜会の近作で繰り返されてきたパターンの反復でもあり、その意味でも『橋の下のアルカディア』がもつ集大成的な位置づけ――決してこれで「完結」ということはないにせよ――を再認識させられる思いだった。

第2幕終盤近く、「猫にだけ見えるもの」の前後で、地下街の店が消えてゆくのに代わって、両袖に巨大な石の壁――クローズアップされた橋脚だろうか――が出現する。「India Goose」とともに零戦が飛び立つラストシーンでは、この巨大な石の壁あるいは橋脚が崩壊し、その崩壊後の巨大な瓦礫が、カーテンコールと舞台挨拶のあいだずっと、そのまま中空に残っている。

全体的印象

『橋の下のアルカディア』の物語の全体的な構造は、初演と大きく異なることはなく、ただ、「捨てられた」者たちの救済という基本的なメッセージが、上述のようなさまざまな変更点を通じて、より明瞭に力強く伝わってきた――というのが第一印象だ。

ただ、どちらかといえば初演では、そのメッセージが最終的には、一種の静謐な祈りのようなものとして胸の中に残ったのに対して、今回の再演では、もっとダイナミックな、今のこの現実を懸命に生きようとする衝動あるいは情熱のようなものとして、余韻を響かせているような気がする。

そうした印象の変化は、直接的にはおそらく、上述のように天音のセクシーな演技がより強調されていることや、ラストシーンでの橋脚の崩壊という視覚的効果のインパクトによるものかと思う。

静と動、祈りと情熱――それらの両面はいずれも、この『橋の下のアルカディア』という作品世界がもつ深さ、豊かさの反映であろう。

――以上、いささか箇条書き的な羅列が多くなってしまったが、千秋楽を迎えるまでは、まだ夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』という「作品」は完結していない。千秋楽を観た後に、この記事では書ききれなかったことを――上述のような細部のみならず、この作品全体に含まれた多層的な意味についても――改めて考えてみたい。

«『橋の下のアルカディア』劇場版を観て

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