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2016年12月10日 (土)

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』中間報告――初演VOL.18との差異を中心に

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この記事は、中島みゆきの夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』(2016年12月17日(土)まで赤坂ACTシアターで公演中) の内容に関する「ネタバレ」を多く含みます。これから公演をご覧になる方は、ご注意ください。

夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』の初日11月17日(木)、および11月22日(火)の2公演を観た。

初演を前提としたうえで再演を観ることの醍醐味は、初演とのさまざまな差異――それが大きなものであれ、微細なものであれ――を通じて、その演目に中島みゆきがこめたであろうメッセージの多層性、あるいは世界観の深みや広がりを、より大きな振幅の中で体感できるということに尽きるだろう。

この演目の初演VOL.18については、すでに (劇場版の感想も含めて) このブログに5本の記事を書いてきた。しかし、かなりの字数を費やしてもまだ、この作品の世界の隅々までを知りえたという実感はない。むしろ、思い出し考えるほどに、言葉にしえない謎が自分の中で深まってゆくような感覚があった、というのが正直なところだ。

が、今回の再演は、それらの謎のすべてとは言わないまでも、少なくともいくつかをより明瞭な光の中に照らしだし、そしてそのことによって、この『橋の下のアルカディア』という演目がはらむ魅力と衝撃力を、初演とはまた異なる新たな視角から発見させてくれたように感じる。

この記事では、千秋楽を1週間後に控えた現時点での「中間報告」として、初演との差異――それもとくに重要と思われる部分――を思いつくままにピックアップしながら、現時点での印象や考えをまとめておきたい。

なお、今回もまたビジュアル面では、ぴしわさんの『覚え描き』ブログに掲載されている見事なイラスト群が、私の視覚的記憶の不完全さを補ううえで大いに助けになった。ぜひあわせてご参照いただきたい。

「模型の高橋」および九曜とその父・祖父について

第1幕が始まってすぐに注意を惹かれるのは、舞台下手にある模型店――高橋九曜 (石田 匠) の実家――の外見である。初演では水色のシャッターに左横書きで「模型のタカハシ」と店名が記されていたが、今回は右横書き・漢字で「模型の高橋」と大書された看板が店の上部に掲げられている。さらに看板の「模型の」と「高橋」との間に大きな零戦のレリーフ(?)があり、プロペラ部分は看板からさらに上部に大きくはみだしている。

店名が左横書きから右横書きに変更されたことは何を意味するのだろうか。この地下壕が防空壕として建設された戦前ないし戦中からすでに、この模型店はここに店を開いており、店主の息子だった一曜は、その頃にパイロットを目指して予科練に志願した――といった時系列が想定されるのだろうか。

だが、こうした時代考証めいたディティールにこだわることには、おそらくあまり意味はないだろう。それよりも本質的なのは、この模型店が、3世代を通じて戦争の記憶が継承されてきた場所であり、そのことが看板の右横書きによってより強調されている、ということなのだと思う。

ついで、第2幕の「水晶球」の場面では、九曜が歌いながら、模型店内の父と祖父の遺影の傍らから、かなり大きな零戦の模型を取り出す。この模型は――ラストシーンで登場する零戦と同じく――翼端灯 (右が緑、左が赤) が輝いている。

看板に掲げられたレリーフとこの模型はともに、明らかにラストシーンへの伏線であり、零戦が祖父・一曜から父・忠を経て九曜の世代に受け継がれた戦争の記憶――そして「人を幸せにする翼」という叶えられなかった願い――を象徴していることを示唆しているのだろう。

少し場面は戻るが、第1幕の「一族」は、九曜が二人の遺影を胸に抱きながら歌う。この場面では彼はガードマンの制服のままであり、次の第2場で「公羊」としての前生が明かされることへの伏線になっているのは初演の時と同様だ。が、それと同時にこの歌には、かつて「脱走兵」として謗られた――彼と同じ「曜」の字を名に持つ――祖父と、彼を匿った父の記憶を、「知られたくない」と願いつつも大切に守ってゆこうとする九曜の屈折した思いもまた表現されているのではないか――再演で付加されたこの演出は、「一族」のそのような両義性を示唆しているようにも思える。

天音の衣装、振り付け等について

ビジュアル面での変化としておそらく最も強い印象を与えるのが、豊洲天音 (中村 中) の姿と立ち居振る舞いだろう。

第1幕の「恋なんていつでもできる」では、彼女は二の腕や胸元も露な銀色のタイトなドレスで、九曜を誘惑する妖艶なダンスを披露する (ここがラッキィ池田氏による振り付けだろう)。

後の第2幕で、チンピラに襲われて怪我をした九曜を天音が介抱する場面についても、中島みゆきから「もっと濃厚にガードマンに迫るように」という指示があったとのことだ (パンフレットにある前田祥丈氏の「稽古ルポ・解説」より) 。

天音が九曜に寄せる想いは、おそらく九曜の亡き父・忠 (「呑んだくれのラヴレター」の送り主) への想いを引き継いだものであり、また前生のすあまが飼い主・公羊を慕う気持ちの再生でもあるように見えるが、それと同時に――あるいはそれ以上に――今生において天音が「生きること」へのポジティブなエネルギーの発露という印象を強く受ける。何と言ってもセクシュアルな事柄への情熱は、人あるいは生き物が生きてゆくエネルギーの重要な源泉なのだから…

また、第1幕の「大きな忘れ物」で、銀行強盗が抱えていた現金を人見と天音が横領(?)しようとするドタバタの直後に、九曜が現金の入っていたカバンの蓋を閉める音が大きく反響し、天音が激しくおびえる場面も――コミカル/シリアスのコントラストの強さという点を含めて――非常に印象的だ。

この大きな音の反響は、第2場ですあまが猫籠に入れられる場面で猫籠の蓋が閉じる音として再現され、天音のおびえが前生の記憶に由来することが明らかになる。

3人の関係性について

第1幕での「人見ちゃん、仕事中は名前で呼ばないでください。高橋です」という九曜の台詞に対応して、第2幕では「まだ仕事中ですので、橋元さんと呼んでくださいね」と橋元人見 (中島みゆき) が答える台詞が追加されている。初演では「人見ちゃん」という呼びかけはなく、これらの台詞は――前生で夫婦であった――九曜と人見のあいだもまた気の置けない関係であることを示唆している。

「仕事中」という言葉は、天明の場面で公羊が歌う「男の仕事」の伏線になっているのだろうか――いずれによせ、前生での名前「公羊」「人身」と同音の名前で呼ばれることをお互いが無意識のうちに忌避していることが、初演よりもさらに強調・明示されているのは明らかだ。

また、天明の場面では、最後にすあまを猫籠に入れる人物が、人身から公羊に変更されている。これは「捨て子選び」「男の仕事」の歌詞との整合性という意味もありそうだし、今生のシャッター街でと同様に、前生の天明の時代でもまた、3人相互の関係性がより緊密に描かれているという印象を与える。

水晶球と猫の眼の光

第1幕の「川の音が聞こえる」では、人見が手に持った水晶球と水晶宮の店内に置かれた水晶球とが、同期するかのように青白く光る。また第2幕の「一族」でも、人見が後ろ手に持った水晶球が青白く光り、九曜がそれに脅えながらも惹きつけられるかのように彼女の後に従う場面が、きわめて印象的だ。

これらの青白い光は、あたかも3人の前生の記憶が再生され始める前兆であるかのようで、前作『今晩屋』での消火栓の赤ランプの点滅とも似た役割を果たしているような気がした。

また天明の場面、猫籠に入れられる直前で、すあまの両眼も同様に青白く光る。この演出は、第1幕の幕切れで彼女が歌う「人間になりたい」の「夜を映す青い目も…」という歌詞に対応しているが、さらに上述の水晶球の青白い光と呼応し、来生すなわち「次生まれるとき」へと悲しみの記憶を伝えようとする意志の表現でもあるかのようだった。

風鈴の音

第2幕では冒頭に風鈴が3回鳴り、「夏」という季節を印象づける。日本の「夏」は戦争の記憶と鎮魂の季節であり、風鈴の音は (仏壇のおりんの音にも似て) まず、そのことを暗示しているのだろう。

さらに第2幕の中盤では、「模型の高橋」の軒下に人見が5個の風船を吊るす。これらの風鈴の音は、この世にいない者たち、すなわち、それまでは遺影としてのみ登場していた忠と一曜――あるいは、もし5個という数字に意味があるとすれば、人身・公羊・すあまを加えた5つの魂――の思いを、この世に呼び戻すための「信号」の役割を果たしているかのように思えた (その点では、『今晩屋』での鐘の音の役割とも通じるものがあるのかもしれない)。

メロディーとアレンジの変更

第1幕の「恋なんていつもできる」は、初演でのアップテンポから、上述の天音の妖艶なダンスに合わせて、サックスのイントロで始まるミディアムテンポのアレンジに変更されている。

第2幕中盤の転換点となる「二隻の舟」のイントロでは、チェロが奏でる「水晶球」のメロディが挿入され、水晶球が時の流れを超えて過去を映し出すことを暗示しているようだった。

続く「水晶球」をはさんだ「一族」では、上述の水晶球の色の変化とも呼応しながら、前生の記憶の再生が始まることを予示するかのように、第1幕とは異なる低い音程のメロディ――おそらく主旋律に対する対旋律――を人見が歌う。

第2幕終盤近く、やはり人見が歌う「いらない町」は、第1幕とは異なる短調のメロディに変更され、地下街を襲う絶体絶命の危機が強調される (同じ曲が長調・短調の両方で歌われるのは『今晩屋』の「旅仕度なされませ」でも同様で、やはり悲劇的な運命への転換を印象づけていたことが思い出される)。

「呑んだくれのラヴレター」「国捨て」の歌詞追加、およびラストシーンについて

台詞に関しては、上記以外にも、かなり多くの箇所で追加や改変がおこなわれているが、歌詞の追加部分は、この終盤の2曲で繰り返して歌われる――パンフレットにも記載されている――4行のみである。この4行は、「緑の手紙」というこの物語の鍵となる謎めいたモチーフの意味を明確化するという、きわめて重要な役割を果たしている。

まず冒頭の

その手紙に鍵は無く その手紙に主は無く

というフレーズは難解だが、「鍵は無く」とは、その手紙はすべての受取人に対して開かれており、その意味は誰にでも自由に読み取れるはずだということを、また「主は無く」とは、その手紙の送り主は個人としての一曜なのではなく、「幸せにする翼」という願いを戦争によって奪われた――パイロットや技術者たちをはじめとする――すべての人びとなのだということを、それぞれ意味しているようにも思える。

それに続く

あるはずの銃も無く あるはずの武器もない
見るがいい その場所には 輝く何かが見える

という2行は、ラストシーンに登場する零戦の両主翼の20mm機銃のあるはずの場所に、眩い前照灯が点ることへの明らかな伏線だろう。この大道具の効果自体は初演と同様だが、「人を殺す道具ではなく……」という一曜の願いをさらに強調するための追加歌詞となっている。

そして、

暗い水の底から 空へ

という追加部分の最後のフレーズは、かつてこの地で人柱となった人身たちの魂が救済され、天空へ羽ばたくというラストシーンの意味を、より鮮明に表現する。

水底あるいは地上から天空へという垂直軸の上昇が、過去(前生)から未来(来生)への飛翔、すなわち過去の救済と重ね合わされるというビジョンは、『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』という夜会の近作で繰り返されてきたパターンの反復でもあり、その意味でも『橋の下のアルカディア』がもつ集大成的な位置づけ――決してこれで「完結」ということはないにせよ――を再認識させられる思いだった。

第2幕終盤近く、「猫にだけ見えるもの」の前後で、地下街の店が消えてゆくのに代わって、両袖に巨大な石の壁――クローズアップされた橋脚だろうか――が出現する。「India Goose」とともに零戦が飛び立つラストシーンでは、この巨大な石の壁あるいは橋脚が崩壊し、その崩壊後の巨大な瓦礫が、カーテンコールと舞台挨拶のあいだずっと、そのまま中空に残っている。

全体的印象

『橋の下のアルカディア』の物語の全体的な構造は、初演と大きく異なることはなく、ただ、「捨てられた」者たちの救済という基本的なメッセージが、上述のようなさまざまな変更点を通じて、より明瞭に力強く伝わってきた――というのが第一印象だ。

ただ、どちらかといえば初演では、そのメッセージが最終的には、一種の静謐な祈りのようなものとして胸の中に残ったのに対して、今回の再演では、もっとダイナミックな、今のこの現実を懸命に生きようとする衝動あるいは情熱のようなものとして、余韻を響かせているような気がする。

そうした印象の変化は、直接的にはおそらく、上述のように天音のセクシーな演技がより強調されていることや、ラストシーンでの橋脚の崩壊という視覚的効果のインパクトによるものかと思う。

静と動、祈りと情熱――それらの両面はいずれも、この『橋の下のアルカディア』という作品世界がもつ深さ、豊かさの反映であろう。

――以上、いささか箇条書き的な羅列が多くなってしまったが、千秋楽を迎えるまでは、まだ夜会VOL.19『橋の下のアルカディア』という「作品」は完結していない。千秋楽を観た後に、この記事では書ききれなかったことを――上述のような細部のみならず、この作品全体に含まれた多層的な意味についても――改めて考えてみたい。

2016年2月24日 (水)

『橋の下のアルカディア』劇場版を観て

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すでにライブで5回、BDでも数回は観ている夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』だが、奇しくもロードショー4日目に当たるこの日――2016年2月23日――に、どうしても劇場版で改めて観なおしてみたくなり、最寄りのMOVIX京都へと足を運んだ。

やはり大画面の迫力は素晴らしく、とりわけあの大詰めのシーン (第2幕第2場) では――高橋一曜を演じる宮川崇を含めた――4人のキャストそれぞれの全力の歌唱と演技、ミュージシャンたちのうねりと滾りに満ちた演奏、舞台装置と照明の美しいビジュアル、そしてそれらすべてが織りなすことによって具現される世界観の衝撃力の深さと激しさに、改めて圧倒されつくしてしまった。

この日、新たに気づかされたのは、「思い出す」ということのもつ意味について――

VOL.11『ウィンター・ガーデン』で〈転生〉というモチーフが前面に出てきて以来、夜会では、前生の記憶の再生ということが、しばしば物語の重要な転換点をなしてきた。しかし『橋の下のアルカディア』では、それに加えて、もっと近い――いわば〈今生〉の中での――記憶の再生ということもまた、重要な意味をもっている。

たとえば、「一夜草」から (2度目の) 「呑んだくれのラヴレター」にかけて、天音 (中村 中) が高橋忠 (宮川崇) から送られた何通もの手紙を読みながら、何か重要なことを思い出してゆく、劇的な表情の変化――そしてその直後、九曜 (石田匠) が天音から、忠の紙飛行機の手紙を見せられ、やはり何かを思い出したように店の奥に駆け込む場面――それらはいずれも、あのラストシーンの救済へと物語を導くための、重要なステップになっている。

思い出しかけてる 誰かが呼んでいる

「ペルシャ」のこの歌詞のように――あるいは昨年秋のNHK『SONGS』での中島みゆきの、「時の流れが落っことしていったものを、一番後ろから拾いながらトボトボと行く」という言葉のように――時の流れの中で忘れられ、捨てられかけた記憶の一片一片を拾い上げ、愛おしんでゆくこと。

そのようにして「思い出す」べき記憶とは、「人柱」「生け贄」として集団の犠牲になった者たちのことは言うまでもなく、それよりももっと些細な――またそれゆえに忘れられがちな――一人ひとりの無名の人間や生き物たち、あるいはそれらが存在していた町の記憶といったものまでをも含んでいる、とみるべきだろう。

そのような中島みゆきの視点こそが、あの橋の下の捨てられかけたシャッター街を、幸福な記憶に彩られた「アルカディア」として想起させ、現出させてくれるのだろうし、第2幕で、乱入してきたチンピラたちを店が動き出して追い払う、痛快かつユーモラスな「シャッター街は生きている」の場面もまた、そうした視点の反映であるように思う。

「橋」と「アルカディア」の意味

今更ながらだが、この夜会の題名でもあり、物語の舞台をも意味している、「橋 (の下)」と「アルカディア」という二つの言葉の意味について、改めてここで考えてみたい――なお、以下の考察は、Facebookでの友達のひとり、Hさんから投げかけられた問いへの答として考えた内容を、まとめ直したものである。貴重な問いを与えてくれたHさんに、この場を借りて謝意を表したい。

第1幕冒頭で、いきなり提示される「なぜ橋の下」という、物語の背景そのものへの問いかけ――その答を探ることから始めよう。

「橋の下」という場所の設定については、公式サイトに掲載されたインタビューで中島みゆき自身が明言していたように、最初の発想としては、「捨て子が捨てられる場所」という通俗的なイメージが出発点ではあったのだろう。

その上で――第1幕第2場の「人柱」でとりわけ強調されているとおり――「橋」には、いわば「個」の上位に存在し、君臨するものとしての集団、社会ないしは国家の象徴という意味が、明らかに付加されている。

ただ重要なのは、集団や社会から「捨てられた」者たちが暮らす場所、あるいはその暮らしの記憶に対して、理想郷を意味する「アルカディア」という言葉が、逆説的にも与えられていることだ。

そこで暮らしてきた者たちの「歴史」ともいうべき時間的な意味を、この言葉が含んでいることは、

優しいあなたの側にいて
すべての月日はアルカディア

という『呑んだくれのラヴレター』冒頭の歌詞でも表現されているとおりである。

この「アルカディア」は――「貧しいながらも幸福な生活」といった、やや通俗的なイメージも含んでいるのかもしれないが、おそらくそれ以上に――「優しいあなた」が側にいた懐かしい過去の時間が、いつの日か、「捨てられた」者たちが救済されるべき未来へとつながっていくという予感、あるいは希望を含んだ言葉でもあったのではないだろうか。

言うまでもなく、この予感ないし希望は、ラヴレターの送り主であった高橋忠の父、「脱走兵」高橋一曜が、格納庫の中に隠されていた零戦とともに登場し、3人を救済するラストシーンで成就されることになる。

過去への遡行から新たな未来の発見を経て、救済に至るという道筋は、これまでの多くの夜会――『2/2』『ウィンター・ガーデン』『24時着0時発』『今晩屋』――でもストーリーの根幹をなしていた。が、(以前の記事で書いたとおり) 『橋の下のアルカディア』では、その道筋が、近現代日本が辿った現実の歴史を背景として再提示されている点が、決定的に重要だ。

そのように考えてくると、「橋」のもつ意味もおそらくは大きな逆説を含んでいて、かつて「個」を「生け贄」として捨てた集団・社会あるいは国家が、いつか遠い未来には、「生け贄」を必要としないものへと変容していくことへの遥かな希望もまた、そこには含まれていたのではないか、と思われてくる。

あの零戦が――かつて人身が人柱に立てられた――「橋脚の根元」の格納庫に隠されていたことは、まさにその変容への希望を象徴しているのではないだろうか。

思い出してみれば、「橋」のもつそのような時間的イメージ――いわば「未来の救済への懸け橋」というイメージ――は、 (まだ記憶に新しい、コンサート『一会』でも歌われた) 初期の曲「友情」の

時代という名の諦めが
心という名の橋を呑み込んでゆくよ

というフレーズにも――ネガティブな文脈においてではあるが――すでに予示されていた。

「橋の下」に「アルカディア」が存在する (存在した) という設定は、上述のような意味で、常識的に考えれば、きわめて逆説的である。

しかし、「捨てられた」者たちこそが、新たな未来への希望を見出すという、その逆説こそは――かつて「人を殺す道具」として造られた零戦が、「捨てられた」3人を救済するという、もうひとつの大いなる逆説とも呼応しあいながら――この夜会が私たちに与える衝撃の根底に存在しているのではないだろうか。

『橋の下のアルカディア』は、まさにそのような意味で、忘れられ、捨てられかけた記憶の数々を「思い出す」ことによって、私たちを新たな未来へと導く物語なのだ。

2015年8月14日 (金)

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』再考――「Barねんねこ」と「緑の手紙」について――

Nenneko

夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』が幕を閉じてから、早くも8ヶ月近くが過ぎた。その間もずっと、この夜会の記憶は私の胸の奥底に余熱を保ちつづけ、その舞台の光景――とりわけあのノスタルジアに満ちたシャッター街――は、繰り返し残像としてフラッシュバックしつづけてきた。

にもかかわらず、「中間報告」と題した記事を書いて以降、長らくブログの更新を怠ってきたのは、まったく私個人の散文的現実の制約によるものである。そうした現実から束の間ではあれ逃れるべきこの貴重な夏休みに、あの夜会について、これまでまだ言語化しきれていなかった記憶や思考のいくつかを、可能な限りまとめておきたい。

2014年12月16日の公演は、千秋楽にふさわしい、すべてのメンバーの思いと情熱がひしひしと伝わってくる素晴らしい舞台だった。

最後に上昇してゆく零戦は、幕が閉じる寸前に左旋回を開始する (この演出は、公演期間後半以降に追加されたらしい)。千秋楽では、この場面が見えやすい1階下手で観たせいもあってか、そのイメージがきわめて鮮烈に記憶に残っている。あの最後の瞬間の旋回によって、3人が橋の下の地下壕から脱出し、新天地――新たなるアルカディア――に向けて飛び立つというラストシーンの意味は、より強く鮮明に伝わってきたように思う。

カーテンコールでは、私にとってはこの夜会で最初で最後のスタンディングオベーション。舞台挨拶では、中島みゆき自身から、この作品の意図として「少しでも幸せな気持ちになってもらえたらと思って書きました」という趣旨の言葉があった。

優しいあなたの側にいて すべての月日はアルカディア

「呑んだくれのラヴレター」のこの歌詞を、そのまま客席から彼女に贈りたいと思った瞬間だった。

終演後、私にとっては十数年ぶりの出待ちにも参加。ミュージシャンたち、石田 匠、中村 中を次々と拍手で送り、最後についに中島みゆきが車に。窓を開け、にこやかに私たちに手を振ってくれる姿を見て、寒中の楽屋口での2時間は、熱い時間に変わった。

――舞台の記憶に戻ろう。

私にとって、考えるべき重要な問いは2つあった。1つは、高橋九曜 (石田 匠) の父・忠 (宮沢 崇) が書いた何通もの「呑んだくれのラヴレター」の受取人は誰だったのか――またそのことと関連して、「Barねんねこ」の「ママ」とはいったい誰だったのか――ということ、もう1つは、それらの手紙の中で示唆される救済へのキーワード「緑の手紙」とはそもそも何を意味したのか、ということである。

この2つの問いが重要なのは、それらが互いに絡まりあって、この夜会の世界観を根底で支えつつ、そこに魅惑的で謎めいた奥行きを与えてもいるからだ。

「呑んだくれのラヴレター」の受取人と「Barねんねこ」の「ママ」

前の2つの記事で私は、忠のラヴレターの受取人は――舞台には登場しない――「Barねんねこ」のママなのだと考えていた。が、この解釈は今や撤回しなければならないようだ。

私が観た最後の2公演 (楽前・楽日) では、第2幕で「呑んだくれのラヴレター」が2度目に歌われる場面、紙飛行機の折目のついた手紙を読みながら「あなたに明かして眠りたい」と歌うところで、天音 (中村 中) は、「あなた」とは自分のことなのだと人見 (中島みゆき) にジェスチャーで示していた――おそらくこれも、公演期間後半になって追加された演出なのだろう。

3年前に世を去る直前まで、忠は――「語るに及ばぬ呑んだくれ」と自らの名を秘しながら――天音に紙飛行機のラヴレターを送りつづけていたのだ。

――だが、そうだとすると、「Barねんねこ」の (代理ではない本来の) 「ママ」とは誰だったのか。

このことについては、これまでも参照させていただいてきた、ぴしわさんの「覚え描き」ブログに、第2幕大詰めの「国捨て」の場面について、次のような重要な指摘がある (私自身はこの場面を5回も観ていながら、認識できていないのが口惜しいのだが)

脱走兵の登場から怯えている天音ですが、
歌詞の一節からはっと気がついた顔で、
人見の方向を見てこみ上げるように「ママ!」と言っています。

だとすれば、隣の「水晶宮」の占い師・人見こそが実は「Barねんねこ」の本来のママでもあった――にもかかわらずその事実を、この瞬間まで天音は忘れていた――ということになるだろう。

このことは、人見の存在の意味について、また新たな問いを投げかける。

人見はなぜ――第1幕第2場で明かされる3人の前生という遠い過去だけでなく――自らが「Barねんねこ」の本来の店主でもあったという近い過去をも、天音 (や九曜) に対して封印しなければならなかったのか。

それはおそらく、「Barねんねこ」の存在こそが、前生において「捨てられた」悲しみの記憶から彼女たちを救い出し、この地下壕に安住の地――アルカディア――を見出させるための結節点だったからではないだろうか。

前の記事で書いたことの繰り返しになるが――「ねんねこ」という店名は、黒猫のイラストが描かれた看板とも相まって「猫」を連想させるが、本来は、赤子をくるむ綿入れ半纏の意味だ。だとすれば、ママ (人見) が命名したであろうこの店は、「捨て子」たちを救済し、癒す場としてのアルカディアの中心でもあったのだ。

だが、過去の悲しみの記憶は、たとえ封印され忘却されたとしても、消滅させることはできない。

近すぎる場所から見ると ここが橋だとは見えない
遠くから見える過去 ここは流れだった

「川の音が聞こえる」で彼女が歌う通り、ここが――かつて人身と公羊の二人の生命を呑み込んだ――流れであったという過去は、この地下壕、シャッター街という内部の視点 (「近すぎる場所」) からは隠蔽されている。

そのように、視点を内部ないし近傍にとどめようとするスタンスは、未来に対しても同様に向けられる。人見は、過去と未来を見通すことのできるはずの占い師でありながら、あえて――「水晶球」で歌われるように――「遠い先のこと」に対しては人びとの眼を閉ざそうとするのだ。

しかし、「未曽有の嵐」によってこの地が再び「流れ」に――「生け贄」を求める集団の暴力に――呑まれようとする未来は、実は間近に迫っていた。

この新たな危機に対して、人見は無力だった。その彼女自身を、そして天音と九曜を「未曽有の嵐」から救い出すべく、もうひとつの――彼女の知らない――過去から送られてきたメッセージこそが、「緑の手紙」だったのだ。

「緑の手紙」

上述の「国捨て」の場面、とうに世を去っているはずの高橋一曜 (宮川 崇) が飛行服姿で格納庫から登場し、孫・九曜に飛行帽を手渡す場面は、高橋家三世代に受け継がれてきた「緑の手紙」のメッセージが、今も生きていることを示唆している。

このメッセージによって、3人の悲しみの根底にあった「集団が個を捨てる」という行為のヴェクトルは、逆向きに――「個が集団を捨てる」ことによる「個の救済」という方向に――反転されるのだ。(なお、この点に関する考察は、Facebookでの友だち K さんからの示唆に多くを負っている。この場を借りて謝意を表したい。)

第1幕第2場、天明の時代の場面で「集団が個を捨てる」行為のそもそもの発端となったのは、人身を人柱として差し出せという村長の命令だった。その村長を演じた宮川 崇が、第2幕では、「緑の手紙」の送り主の一曜として、またそれを託された息子・忠として再登場するというキャスティングは、このヴェクトルの反転を正確に反映してもいる。

そして同様の反転は、公羊=九曜と人身=人見のあいだでも、また人身=人見とすあま=天音のあいだでも、「自己犠牲」とその否定による救済という形式で反復される。

すなわち、天音は自らケージの中に残ることによって人見を、人見は天音とともにケージの中に残ることによって九曜を、それぞれ救おうとするが、それらの「自己犠牲」は、人見によって、九曜によって、相次いで否定されるのだ。

これらの反転の構造の全体を文章で逐一説明すると煩雑になるので、代わりに次のような図を描いておこう。

Arcadia

――しかし、救済へのメッセージは、なぜ「緑の」手紙でなければならなかったのだろうか。

「緑」という色彩は――これも前の記事で書いたように――植物で覆われた格納庫の扉や、零戦の機体上半部の塗色として視覚化されてはいた。だが、「緑」が救済を意味する理由や、その手紙には「何が」書かれていたのかという根本的な問いは、依然として謎のままである。

この問いに応えるための、きわめて重要な手がかりとなりそうなのが、作家・五十嵐勉が1999年に発表した小説『緑の手紙』(右カラム「書籍」欄参照) である――もとよりこの作品への言及は、公演パンフレットその他、公式のメディアではまったくなされていないので、この点は、まったく私個人の解釈であることを、ここでお断りしておかなければならない。

しかし、この夜会の最も重要なモチーフである「緑の手紙」の原型の少なくともひとつが、この小説にあることは、ほぼ間違いないと私は思っている。

以下、小説のあらすじを――少々長くなるが――紹介しておこう。

1980年代、日本語教師・五十嵐は、カンボジア難民の青年ポ・シティと知り合う。彼は、クメール・ルージュ (ポル・ポト派) の支配によって失脚した元文部大臣の息子で、同派による残虐な強制労働下から脱出し、ベトナム介入による戦火を潜り抜け、日本に亡命したのだった。

五十嵐は、しだいに彼と親しくなるうちに、かつて太平洋戦争時、南方戦線に動員された一兵士であった亡父から聞かされた地獄のような戦場体験を、繰り返し回想するようになる。

その頃、五十嵐は知人の戦場カメラマンの事務所で、カメラマンがカンボジアの難民キャンプで僧侶から託されたという、緑色の封筒に入った手紙を見る。緑の封筒に何の意味があるのか、とカメラマンに尋ねると――

カンボジアのある地域には国家の危急存亡のときや、逃れえない大きな災厄に襲われたとき、緑の手紙に願いを書いて天に訴えると、それが神に聞き入れられる伝説があるという。封筒だけでなく、正確には記す紙も緑を使う。本来は鳥の足に付けて空に放つというものだった。……それは一つの希求であり、最後の願望なのだということだった。

大多数のカンボジア難民が日本社会に適応し職を得ていくのと対照的に、ポ・シティは、祖国を救うべく、シハヌーク派への軍事支援を得るための政治活動に奔走する。が、その活動は日本社会にはまったく受け入れられなかった。その結果、彼は精神に障害をきたし、収容された精神病棟から、なおも各方面に軍事支援を要請するための手紙を、緑色の封筒に入れて出しつづける。

ポ・シティの協力要請を拒否しつづけてきた五十嵐だったが、「緑の手紙」を読んだ後、彼はついに日本語教師の職を辞し、知人の戦場カメラマンとともに「国境へ行き、難民と戦乱との現実を自分の目で確かめる」ことを決意して、闇夜の中、インドシナ半島へ向かう翼に身を委ねる。

世界のどこか戦争のあるところに、人間の叫びのあるところに、この「緑の手紙」はさまよい続ける。戦乱の中に圧殺される者の希求として、その手紙はどこかに届かなければならない。だれかが、何かが汲み取ってくれるまで、それは一つの祈りとして存在し続ける……

以上のように、この小説のストーリーは、『橋の下のアルカディア』とは直接の関係はない。唯一の――両作品の根幹をなす――共通項は、「緑の手紙」というキーワードである。

「緑の手紙」はこの小説では、危急存亡の中にいる者自らが、最後の希求として送るものであったのに対して、夜会『橋の下のアルカディア』では、危急存亡の中にいる者が、そこからの脱出ための鍵として受け取るものだという点で、明確な対比をなしてはいる。

だが、いずれにせよ、それが「戦乱 [危機] の中に圧殺される者の希求」であるという根本的な点では、共通しているのだ。

さらにいえば、「緑の手紙」を「鳥の足に付けて空に放つ」というイメージと、零戦の脚にワイヤーで結びつけられたケージの視覚像、また闇夜の中を異国へと飛び立つラストシーンと「India Goose」のラストの「飛び立て、夜の中へ」という歌詞など、両作品のあいだに、偶然とは思えない複数の暗合が存在することも無視できない。

これまで、中島みゆき作品の中で「戦争」というモチーフが前面に登場することは――「阿壇の木の下で」のような少数の例外を除いて――ほとんど例がなかった。それはおそらくは、聴き手のイメージを限定したくないという彼女の昔から変わらぬ姿勢とも相まって、戦後日本社会の中で「戦争」というテーマの背後に頑として存在しつづけてきたイデオロギー的な磁場の中に引き寄せられることを慎重に忌避するが故だったのではないか、とも私は想像している。

そのようなスタンスを中島みゆきは現在も基本的には変えてはいない。だからこそこの夜会でも、「戦争の記憶」を伝える「緑の手紙」というモチーフは終盤で突然のように出現するのだし、そこに書かれている内容は、最後までわかりやすく呈示されることはないのだ。

ただ重要なのは、「緑の手紙」によって過去から伝えられきた記憶――ラストシーンで零戦として具現化される「戦争の記憶」――が、再び「生け贄」とされる危機から3人を救出し、新たなる未来へと導くという大いなる逆説がもつ意味だ。

初日のレビューでも書いたとおり、この逆説がもたらす衝撃の深さと激しさこそは、この夜会のメッセージの根幹をなすものである。

また、この逆説のゆえにこそ、戦後日本の光と影とを象徴した空間のようにもみえる、あの橋の下のシャッター街の光景は――中島みゆきの千秋楽の舞台挨拶での言葉のとおり――幸福感に彩られたアルカディアの記憶として、私の中に残りつづけてもいる。

そして、「緑の手紙」の真の受取人――そこに託された「一つの祈り」を受け取り、読み取るべき者――は、実はあの時客席にいた私たち自身だったのではないか、という思いが、むしろ時間が経つにつれて、私の中ではしだいに強まっている。

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